application/pdf本稿は沖縄における鉄器加工のありかたを,王府に服属する職人組織を通して概観しようとするものである。 王府は古くから鍛冶奉行を設置してここで鉄器加工をおこなわせ,また,各間切では番所に付属する鍛冶工房を設けて需要に対処してきた。しかし「羽地仕置」において在村鍛冶制をとるようになると,以後,王府の鍛冶奉行,宮古・八重山の所遣座付属の鍛冶工房など官営工房と在村鍛冶役とが並列して存在することになった。本稿は,こうした状態における所遣座の鍛冶工房を見ていくことから,沖縄の鉄器文化の技術的な性格とでもいったものを引き出してみたいのである。近年まで沖縄に散在していた在村の鍛冶屋たちも,基本的にはこれら官営工房の技術を基にしており,その限りで両者はある種の分業を作り出していたからである。 この目的のための資料は,かならずしも十分とはいえないが,ここではいわゆる「鍛冶例帳」を中心にして,宮古・八重山の分析を試みている。そこから沖縄でもちいられていた材料鉄の素材,その調整方法の特徴を知ることができる。ここで明らかになることは,鍛冶用軟鉄においては,本土から移入した「千割鉄」以外に,古鍋のような銑鉄廃材,農具・船用具のような鍛鉄廃材が,それぞれ固有の方法で再生処理してもちいられ,「千割鉄」の不足を補完していたこと,また,これらは再生処理後も元の素材を反映して同質の軟鉄材料にはならなかったこと,などである。むしろ,このような複合的な材料鉄が利用されていたことを反映して「鍛冶例帳」が作られる必要があったと考えられるのである。 「鍛冶例帳」には,これらの軟鉄材料に加えて,銑鉄から鋼をえる方法も記述されており,この地域では日本本土のような「玉鋼」が使用されなかったことも大きな...